院長の情熱(クリニックについて)
開業に寄せて
浄土の父へ
父との記憶を遡った時、それは父親としての記憶というより医師としての記憶と言った方が良いのかもしれない。
私が幼稚園児の頃、我が一家は奈良県天川村へ引っ越した。現在は人口1300人余りの村である。私には、幼稚園バスの送迎場所まで母に手を引かれながら恐る恐るつり橋を渡った記憶しか残っていない。父は天川村国保診療所へ村唯一の医師として赴任したのである。
村の人々の父に対する眼差しは、畏敬に満ちたものであることは子供ながら十分理解できるものであった。と同時に、私はその長男としての運命を背負っているということも、大人同士の会話から何となく感じ取っていた。
小学校に入ると同時に、滋賀県大津市堅田へ引っ越した。父はそこで宮本診療所を開業した。そして例の運命は、医師の長男というものから診療所の跡継ぎへとさらに重みを増していった。運命を背負う我が足元には、すでに自らの力では除しがたい舗装された道が真っすぐ伸びていることを強く感じた。
私が医師になってから6年が経った時、父の胃癌が判明した。腹部CTを見た時、すべての時間が止まったように感じた。傍大動脈リンパ節は総腸骨動脈分岐部まで腫大していた。それが意味するところは、医師であれば誰でも理解できるものであった。
父の病気が分かった時、母からは土下座をしてまで私に診療所を継ぐことを懇願された。しかし、私の答えはその意に反したものであった。
父は往生間際、黄疸を呈し血圧が70台であっても、風呂に入ると言った。湯船に浸かった父は何も語を発することなく目を瞑っていた。私はただ黙ってそれを見守っていた。私は人からあれほどの畏怖というものを感じた瞬間はなかった。死期を前にして父が私に伝えたかったものとは何であったのか?
父の最期は実家で看取った。私は父の主治医としての役割をも担うこととなった。死亡宣告するまでの数十分間、脈を取りながら父の表情や呼吸をみている私は、子としてではなく医師としてその場に存していた。私は到頭父の最期の瞬間までも、父の子として純粋に向き合えることはなかった。
父の13回忌にあたる2022年、私は開業をする。父の診療所を継ぐという選択をしなかった私の前には最早以前のような舗装された道はない。しかし、父の死から12年の年月を経ても尚、目に見えぬ襷がしっかりと眼前にあると私には感ぜられる。
医師として社会を変える仕事ができた時、59歳で浄土へ旅立った父への、それは死して今尚できる唯一の親孝行なのかもしれない。そして、それはまた、お互いに医師としてではなく、父と子として対話できる瞬間であるのかもしれない。
ただ一心に南無阿弥陀仏と唱える中に漂う『清風』の香は、我が脳裏にこの決意を常に思い起こさせるのである。
挨拶文解説
これは生まれながらにして、医師という宿命を背負った筆者の人生の回想録である。
筆者は医師の長男として生まれた。親の職業が何であれ、二世あるいは跡継ぎが生まれながらに背負う宿命というものは、それぞれいつの時点で自覚するものであろうか?
周りの人たちからの『親と子』の比較は不可避なものであるが、それは実像でもあれば虚像でもある。その声を聞かされる度に心の中に生まれる葛藤は、他者には理解しえないという孤独感・空虚感を幼少時の筆者に植え付けたのかもしれない。
その宿命と抗いながらも筆者は医師という選択をした。その理由は今でもなお明確ではない。抗いはするものの、その宿命の殻を破るだけの大きな熱量を持ちえなかったという消極的選択と表現する方が相応しいのかもしれない。
筆者は医師という選択をしたが故に、父の臨終の際に主治医として存することができた。その一方で、それは白衣という衣装により、子としての純粋な心を覆い隠し医師としての冷静な振る舞いを求められるものでもあった。その二面性の切なさは、幼少時より筆者に根付いた孤独感をより一層強めることとなった。
最後の一文の『清風』には三つの意味が包含されている。一つは、松栄堂の京線香である『清風』である。もう一つは、筆者の父の臨終の際、床の間に掛けてあった掛軸『歩歩起清風』に因るものである。これは、父自らが子のために選別したものである。一歩一歩は小さなものであっても、それを積み重ねていけば、それは『清らかな風』を引き起こす。そのような人になりなさいという意である。
仕事とは自らがやりたいことをやるものでは決してない。社会から己に求められているものであり、それはすなわち天職なのである。父の診療所を継ぐことを肯んじなかった筆者にとって、社会を変える仕事ができた時・・・それが『清風』が起こる時なのである。
『南無阿弥陀仏』と『清風』の香、それぞれが聴覚・嗅覚を介して脳を刺激することにより、筆者の心に宿る決意が脳裏に表出され、浄土の父と現世の筆者とを繋ぐものとなっている。そしてそれは、幼少の頃からの孤独感を刹那に忘却せしめるのである。
『清風』・・・そしてその第三の意は・・・それは亡父の戒名の一部でもある。
そして例の掛け軸は・・・・・当時のまま今も仏間に佇んでいる。・・・・・
リウマチ科みやもと 院長 宮本 茂輝
看板への想い
当院入口には、『リウマチ科 みやもと』と書かれた看板がある。
縦85cm×横213cmの欅の一枚板である。
これは、自身が関節リウマチ患者でもある当院スタッフによる書である。
関節リウマチ治療はこの十年で大きな進歩を遂げた。
しかし、それでもなお一部の患者さんは種々の合併症や経済的理由
などによりこれらの恩恵に与れず、関節破壊が進行し結果的に
関節変形をきたしてしまう。
また、疾患そのものによる合併症や薬剤による有害事象により、
時に生命に関わるような事態が生じることもある。
リウマチ医がリウマチ患者さんの気持ちを理解できるのかと問われれば、
自らが関節リウマチに罹患していない限りそれは嘘になると思う。
ただし、リウマチ診療に携わる我々が努力することによって、
より近づくことはできるはずである。
私がスタッフとして関節リウマチ患者さんを迎え入れる理由がそこにある。
医療従事者と関節リウマチ患者さんを繋ぐ蝶番としての役割は、
時に両者の板挟みに合い苦しい思いをさせてしまうことにもなりかねないが、
その先に我々が目指すべきものが見えるはずである。
未だに治癒という概念がないこの疾患に、我々は関節リウマチ患者さんと
共に立ち向かい共に歩んで行く・・
このような想いを込めて作製した看板である。
スタッフへの想い・スタッフとしての想い
スタッフへの想い
組織におけるリーダーの役割とは何か?それは個々のスタッフの潜在能力を十二分に発揮できる環境を作ることである。
自らの持てる能力にそもそも気付いていない者もあれば、素晴らしい能力を持っていてもそれを存分に発揮できていない者もいるのかもしれない。
トップダウンは強力な前進力を生むように思われるが、それはあくまで瞬発的で短距離的なものでしかなく、組織は知らず知らずのうちに指示待ちの思考停止に陥るであろう。
組織を正しい方向に導くため、つまり真の組織力を生むためには、リーダーがスタッフ一人一人に『気付き』の機会を与えてあげなければならない。そこには人をみる深い洞察力が求められる。
『Youに何ができるの?』『Youやっちゃいなよ』・・・スタッフの心を刺激するような声掛けによって、葛藤から生まれる動的な力強い組織が作られるのではないかと思う。
『鈍感な人は自分自身が幸せになれても、他人を決して幸せにすることはできない。』
これは私の人生哲学の本質である。医療従事者は鈍感であってはならない。患者さんの変化を敏感に感じ取れなければならない。
senseとは決して受動的なものではなく能動的なものであり、常にアンテナを張り巡らさなければ感じ取れないものである。仮に網膜に映っていたとしても、脳で感じ取ることができなければ、それは『見た』とは言えないのである。
スタッフには常にsenseを磨き続け、常に自らの頭で考え、創造・実践できる力を求めていく。職人としての矜持を持たぬ者は我が組織には不要である。生半可な優しさは決して真のアムウルではない。自らのスタッフを本気で大事にできない者が、患者さんを幸せにすることなどできようか?
スタッフ個々の能力が融合・調和し、そしてそれらが昇華され、私個人だけでは決して成しえないような大きなうねりが稀代の作品として出来上がる日を私は心待ちにしている。
なお、我がクリニックでは年俸制を採用している。プロフェッショナルしか存在しない我がスタッフに、紋切り型の評価は失礼であろう。
スタッフとしての想い
リウマチケア看護師としての軌跡
1999年、新人看護師の私が整形外科病棟で出会った慢性関節リウマチ(現在の関節リウマチ)の患者さんは、当時の最新治療(メトトレキサートによる治療)を受けておられました。ちょうど同じ頃、0歳で若年性関節リウマチ(現在の若年性特発性関節炎)を発症した姪。もっと良い治療が開発されないものかと、関節の著しい変形がある患者さんを看護しながら、彼女の将来に強い不安を抱いていたのを覚えています。
5年後、育休明けで配属されたのは整形外科外来。関節破壊をより強力に抑える生物学的製剤の時代が到来し、その"変革"に大変興味を持った私は、リウマチの専門看護師制度が発足した2010年、「リウマチケア看護師」となりました。その後、整形外科病棟へ異動となり、関節破壊による変形に対する治療(人工関節置換や脊椎の手術)や合併症で入院された患者さんのケアをする中で、入院に至るまでの悪化させないケアがとても重要であると感じ、リウマチケア看護師としてやらなければならない事が沢山あると痛感しました。
「リウマチケア看護師として全うしたい」
その思いを胸に、19年間お世話になった学び多き長浜赤十字病院を退職。以後、宮本先生の下でリウマチ内科を学んでいます。治療選択の意思決定支援や安全に治療継続できるための支援、感染症予防や重篤な副作用の早期発見と対処方法を指導するなど、患者さん一人ひとりの問題を見極め、必要な時に必要なケアを提供しています。
あなたは今、
- 知りたいこと
- 悩んでいること
- 心配なこと
- 先生に聞きづらかったり言いづらいこと
はありませんか?
私たち看護師は、医師と患者さんを繋ぐパイプ役でもあります。いつでもどんなことでも、気軽に相談してくださいね!
日本リウマチ財団登録リウマチケア看護師
日本リウマチ学会登録ソノグラファー
日本骨粗鬆症学会骨粗鬆症マネージャー
脇坂 智子
スクリーンへの想い
日常診療の限られた時間の中で、我々が疾患や薬剤のことを十分に患者さんに理解し納得してもらえるまで説明することは困難であると同時に、逆に患者さん自身も不明な点を質問し、本音を伝えることは困難だと思います。
関節リウマチという病気を患者さんに正しく理解してもらうためには、医療従事者である我々と患者さんの距離が近くなるような特別な機会が必要なのではないか?
それが、院内での定期的な講演会です。開院にあたり、待合室にスクリーンを用意致しました。通院されている患者さんだけでなく、そのご家族や関節リウマチに罹患していない地域の方々をも巻き込んだ啓発の場にしたいと思います。
また、決して我々からの一方的な講演ではなく、患者さんが普段の診療で我々に聞けないような質問を自由にしていただければと思っておりますし、患者さん同士の親交の場、情報共有の場になればとも思います。
院内講演会がお寺の法話のようなものになり、関節リウマチに対する正しい知識がここから徐々に広まり、滋賀の関節リウマチ診療が少しでも良い方向に変わってくれることを切に願っております。
新型コロナウイルス感染症が一日も早く収束し、その暁にこの講演会を開くことができる日を夢見ながら・・・