最近の自分
- 2025.08.28
最近の私は、患者さんとよく「ぶつかり」にいっている。これはどういうことか?
その最も多いシチュエーションは、患者さんが病気と向き合っていない、ひいては自らの人生と向き合っていないと私が感じた時である。それは、病気について学ぼうとすることもなく、ネットを含めた他人の石ころのような情報に振り回され、自らの人生から病気を遠ざけようとするあるいは臭い物に蓋をするような生き方を目の当たりにした時である。そして、自ら決断することを放棄し、すべての決定権を医師に委ね、それが上手くいかなかった時にその感情の矛先を医師に向けるような「他責」の生き方を目の当たりにした時である。
このような患者さんと面した時、多くの医師はその患者さんと「向き合うことをやめる」だろう。正直なところ、関わるのが面倒くさいからである。真正面から向き合ってエネルギーを浪費することが無駄と感じるからである。
今までの自分もそうであったが、最近の自分は少し変わってきたように思う。
「向き合うことをやめる」というのは単に逃げているだけ、患者さんに対して強い口調で言うことによって生じる反作用(患者さんの負の感情)が怖いだけ、結局のところ自分が単に傷つきたくない、嫌われたくない、甘えているだけではないかと思うのである。医師としての責任を放棄するなと。
他人を変えることは難しいし、正直なところできないと思っている。しかし、「私はあなたの病気のことを何とかしたいし、これからのあなたの人生のことを真剣に考えようとしている。しかし、当の本人のあなたはなぜ自らの病気そして人生と真剣に向き合わないのか?」医師はこういうメッセージをしっかり患者さんに送ることが大事ではないかと思うのである。
「ぶつかる」ことは決して悪いことではない。ぶつからなければ永遠に生まれないものもたくさんある。ぶつかることで私のもとを去る患者さんもいるだろう。しかし、私が自らの心に問うべきことは、患者さんの病気そしてその人生に真正面から向き合ったか?それのみである。患者さんから好かれる必要はない。患者さんから好かれたとしても私が患者さんと向き合っていないのであれば、そこに医師としての存在価値は果たしてあるのだろうか?患者さんは単に「虚」をみているにすぎないし、私はそのような虚像を欲していない。
少し話は逸れるが、「他人と比べなくていい」という言葉がある。しかし、多くの人はこれを拡大解釈というか誤訳しているように思う。甘えた解釈をしているように感じる。確かに自分の人生は他人と比較する必要はないのだが、大事なのはその根っこに隠れている言葉だと思う。
「自らの人生の目標を明確に持ち、それに向かって毎日真剣に生きろ。そうすれば自分の人生を他人と比べる必要など自ずとなくなる」
これが全てであり、私はこれからもより高いステージそして次元で生きていきたいと思う。ますます他人と生きている世界が違うと感じるだろうが、この原理原則のもとに生きれば、私は寂しいと感じることなど何一つないのである。