盂蘭盆会

  • 2025.08.13

 モチベーションについては昨年秋(2024年11月)に何度か書いた。多くの人は勘違いしているけれども、モチベーションとは決して他人に与えられるものではない。もちろん、他人の言動により傷つくことや気分が落ち込むことはあるだろう。しかし、それによりモチベーションを喪失することがあったとすれば、本人がモチベーションだと思っているものはおそらく、本当の意味でのそれではないのだと思う。つまり、モチベーションがあると勘違いしていただけで、元々それがなかっただけなのだ。

 プロフェッショナルであれば、モチベーションという言葉を軽々に持ち出すことはないだろう。それは他人を含めた周りの環境に左右されるものではない確固たる自身の軸であるのだから。モチベーションとは責任感ではない。使命感である。責任感で仕事をする者は二流、使命感で仕事をする者は一流。枯れることなく滾々と湧き上がる源泉であるが故に、一流の仕事に繋がるのである。

 毎日毎日来る日も来る日も、本気で全力で生きれば見えてくるものがある。人はなぜ「死」というものに蓋をして「生」というものばかりに目を向けるのか?生死を表裏の紙のようになぜ扱うのか?常に「死」を裏に扱い、忌み嫌い、全く見向きもしない。生きるということばかり考え頭の中が私利私欲で満たされている貪欲な生き物にも関わらず、多くの人は全力で生きていない。この矛盾をどう説明しようか?実にくだらない生き物だ。

 「生」も「死」も同じ平面上にあるはずだ。全力で本気で生きるということは、全力で本気で死と向き合うということを意味する。多くの人は「死」が迫らない限り「死」を意識しない。「死」はいつどのような形で訪れるか分からない。それは突然かもしれない。あなたは全力で生きているか?あなたの大事な人に日々全力で向き合っているか?愛や感謝を伝えているか?生き様が死に様につながるのだ。煉獄杏寿郎を見ればそれを教えてくれる。

 盆休みというものがない私が、盂蘭盆会にこのようなことを考えるのである。世の中の多くの人々を憂いながら・・・