人が忌避するもの
- 2024.06.11
芥川龍之介の「羅生門」にあるように、疫病や飢饉などにより、町中に屍がゴロゴロとしている時代があった。そうでなくとも、長らく人類の死因の第一位が感染症であったわけで、抗生物質のない時代には、死を身近に感じる機会が人には多くあった。
人はいつから「死」を日常生活から排除するようになったのであろうか?
私は死について考えない日は一日もない。こんなことを言うと、暗い奴と思われる読者も多いかもしれない。しかし、生と死はそもそも表裏一体のものである。死について考えるということは、生について考えるということである。
自らの手で父を看取ってから、死は私にとって身近なものになったのかもしれない。自らの身に、それがどのような形でそしていつ訪れるのかは分からないが、死というものについて考えることで、限られた時間をどのように生きるのか、より強く意識するようになったように思う。
私は、この先自分がどれだけ生きられるかということにほぼ関心がない。自分がどのような生き方をすべきか?それ以外に興味はない。生きている間に社会のために何を成し遂げられるのか、常にそればかりを考えている。仮に長生きをしたとしても、何も成し遂げずに死を迎えることが自分にとって恐怖でしかない。常に心の中で闘い、葛藤し、抗いながら生きているのである。
私の名前には、「輝」という漢字がついている。すべての人は、自分の名前を自分の意志で決められるものではない。そこには、父母の思いが込められている。自分が生まれた瞬間から背負った名前の通り、世の中を明るく照らせるよう輝ける存在でありたいと思う。