父の日に思うこと
- 2025.06.15
今日は朝5時半から簿記の勉強をしている。診療日にはなかなかまとまった勉強時間が確保できないから早起きして勉強するしかない。
かといって、診療日に勉強していないわけではなく、診療日は朝6時からクリニックでカルテの予習と簿記の勉強をしている。診療前の時間は限られているので、傍から見ればきっと鬼のような形相をしているのだと思う。
これは決して努力自慢をしているわけではなく、優れた経営者であれば呼吸をするのにも等しい極当たり前の行動だろう。優れた者の常識は、そうでない者の非常識である。文句言わず実行できるがどうか、それがすべてだ。そうでない者はほとんどの場合、実行スピードそして実行量が決定的に足りない。私は常に優れた経営者の方々の発言を自分に落とし込む。「虚」ではなく「実」のある方の発言を頭で理解するだけでなく、実行することで、その領域に近づくことができる。
なぜそこまでやろうとするのか?多くの人はそのように感じるだろう。それは、自分がまだまだ自分の能力の極一部しか発揮していないと感じるからだ。自分の能力を発揮するためには、日々勉強して自分が成長するしかない。自分が成長し、自らの持てる能力を正しく使えば、社会をもっとよくすることができる。社会というと曖昧だが、湖北・湖東医療圏だけでなく、滋賀県全体のリウマチ診療に貢献できると信じ切っているからである。これだけリウマチ診療が進歩した今日、田舎であっても東京と遜色のないリウマチ診療を提供できるかどうかは、提供する側である医師次第なのである。
先日、人生とは「借り物」であると述べた。私は常に想像する。自分は演劇の主人公役であると。観客はすべて「私のご先祖様」である。ご先祖様は常に私の立ち居振る舞いをみている。私はその中で、自分の与えられた役を精一杯こなしているのである。そしてさらに想像する。演劇終了後には、すべてのご先祖様によるスタンディングオベーションで迎えられることを・・・それが私の人生の終わりの瞬間である。
私は医師であり長兄でありながら、胃癌判明後の父の診療所を継がないという選択をした。父を含めたご先祖様が私の選択をどう判断するかは、私の生き方次第である。ただ、一つ言えることがあるとすれば、子が社会のために一所懸命生きようとしている姿、それ以上の親孝行というものがこの世にあるだろうか?
私は「物」ではなく「生き方」でそれを証明したいと思う。そして、図らずも今日は、世の中で言う「父の日」である。