嫌われることは孤独なのか?

  • 2025.10.07

 「先生のこと嫌いな患者さん結構いはると思いますよ」と言われたりする。「まあ、そうかもしれん」と私は思うわけだが、正直なところ患者さんから好きと思われようが嫌いと思われようがどうでもよい。興味がないというのが私の答えである。

 「私が開業する意味は何なのか?」・・・私は常にこの原理原則に基づいて行動をする。私は患者さんから好かれたいがために開業しているわけではない。したがって、冒頭のセンテンスは私の生き方に何ら影響を及ぼすものではない。私は原理原則に従って、毎日全力で生きている。毎日、朝夕の一日二回、西方浄土に向かって今日一日全力で生きることを誓い、そして今日一日無事に終えさせていただいたことを感謝し、「貪瞋痴」を省みるのである。

 私がド真剣に向き合っていることが、患者さんがド真剣に考えていることとマッチしなければ、それまでである。私に患者さんを選択する権利はなく、あくまで選択権は患者さんにしかないわけであるから、私のことが嫌いであるなら患者さん自ら私のもとを去ればいいだけのことである。私のことを嫌いであっても、私のクリニックを選択するのであれば、私に何らかの魅力があるからその方が当院に残るという選択をしているので、それはそれでいいわけである。

 ちなみに、私がド真剣に向き合っていることに対して、患者さんが無関心であれば、私はその方の人生にほぼ興味を持たなくなる。

 ド真剣の意味を患者さんは知らない。私がド真剣になればなるほど、私のクリニックでの始業時間が早くなる。秋分の日が過ぎて日が昇るのが遅くなるのとは対照的に・・・ついに5時台から始業するのが当たり前になってしまった。私はすべての患者さんに選んでほしいなどと思っていない。巷に流布している表面的な優しさは一切捨てた。究極に尖ってでも、それについて来てくれる患者さんが一人でもいてくれればいいのである。それはスタッフも同じ。私が描く未来図を共に見たいと思ってくれる者が一人でもいてくれればそれでいい。友達なんていらない。孤高とはそういうものだ。